バックストーリー

風向きが変わり、潮の香りが鼻の奥をかすかにくすぐる。
子どもの頃から変わらないこの感覚に、サキは肩に入った力をすこし抜いてみた。
 
メイクアップアートを学ぶためアメリカへ渡り、3カ月前に帰国。
東京に部屋を借り、知人のつてを頼って仕事を探しはじめたものの、まだまだキャリアの浅いサキに、希望を満たす話はなかなか巡ってこなかった。
車窓を流れる東京の街を眺めながら、彼女は遠くサンディエゴの空を想った。
日本へ戻る日、空港まで追いかけて来てくれたケン。互いの思いの強さを確かめあっても、二人は結局それぞれの道を歩くことにした。後悔はない。ただ、ケンと離れることになってでも選んだ今の生活が、あまりにやるせなく、そして情けなかった。
 
今日、サキはアルバイトの誘いを断って、東京発の特急に乗った。
ふるさとであるこの小さな漁村に足を向けたのは、何年ぶりのことだろう。
家並みも、軒先に茂る木々も、何ひとつ変わらない路地を歩きながら、彼女は本当の自分をかすかに取り戻せた気分になった。
 
港を抜け、堤防に登る。子どもの頃のお気に入りの遊び場だ。
友だちと数えっこをした沖合いの島々は、霞がかって見ることはできない。
ふと、サキはまたサンディエゴでの日々を思い返した。
ケンと二人で、夕方の波打ち際を散歩したっけ。だけどよくケンカになったな。
だって、ケンはいつも行き当たりばったりだから…。
 
ほのかな感傷に浸って歩くサキの足が、突然止まった。
決して忘れることのできないあの声。
サキの後ろには見慣れたシルエットの若い男が立っている。
雨も降っていないのに、真っ赤な傘をさして・・・。